Masuk第81話 婚礼前夜、あとで考える箱 結婚の前日には、過去を片づけておくべきだと、リディアは思っていた。 誰かに教えられたわけではない。 婚礼作法の本にも、そのような項目はない。 花嫁は入浴を済ませること。 髪を整えること。 衣装と宝飾品を確認すること。 当日の起床時刻を守ること。 誓約文を読み直すこと。 家族への挨拶を済ませること。 どの本にも、未整理の感情を分類しなさいとは書かれていなかった。 それでもリディアは、王宮の客室に用意された小さな机の前で、木箱を開いていた。 箱の蓋には、セオの字で書かれた札が貼られている。『あとで考える箱』 ひどく軽い名前だった。 中身は、まったく軽くない。 父から届いた手紙。 母が救済基金の実務研修について書いた短い報告。 セレスティナから届いた、書き直しだらけの手紙。 ヴェルクレア家の執事長アルマンから送られた近況。 そして、返事を書こうとして書けなかった便箋が三枚。 リディアは最初に、父の手紙を取り出した。『あなたは二十一歳。誕生日は冬至祭の五日前。』 もう何度も読んだ。 それでも読むたび、胸の中の違う場所が痛んだ。 初めて読んだ時は、遅すぎると思った。 二度目は、覚えたのだと思った。 三度目は、なぜ今なのだろうと思った。 四度目は、少し嬉しい自分に腹が立った。 五度目から先は、数えていない。「……分類不能」 リディアは呟いた。 監
第80話 旧貴族派の最後の嫌味 人間は、負けたからといって黙るとは限らない。 むしろ、もう勝てないと分かった人間ほど、最後に嫌味くらいは言って帰ろうとする。 リディアは、そのことを王宮北翼の祝宴広間で学んだ。「まあ。監査官章を身につけた花嫁など、聞いたことがありませんわ」 声は小さかった。 しかし、聞かせるための小声だった。 それは、小声の意味をかなり間違えている。 リディアは手にしていた果実水の杯を置いた。 婚礼まで、あと四日。 本日の祝宴は、ギルベルトとリディアの婚姻を前に、王家主催で開かれた小規模な晩餐会だった。 小規模。 王宮基準である。 出席者は百人を少し超えていた。 リディアに言わせれば、百人を超えた時点で十分に大規模なのだが、王宮では三百人以下は「身内だけのささやかな集まり」に分類されるらしい。 人間の感覚とは、環境で壊れる。「ベルダ侯爵夫人」 リディアは声の主へ顔を向けた。 六十歳を越える老婦人だ。 扇子を持ち、姿勢は美しい。 かつて白羽の会へ何度か名義を貸していたが、直接的な不正への関与は認められなかった。 ただし。 リディアを嫌っている。 これは帳簿を調べなくても分かる。「何か?」 尋ねると、ベルダ侯爵夫人は微笑んだ。「いえ。ただ、時代は変わったものだと思いまして」「そうですね」「以前でしたら、花嫁は夫の家に入る日に、余計な肩書きをいったん置いたものです」 周囲にいた貴婦人たちが、僅かに黙る。 離れる者はいない。
第79話 若い令嬢たちの小さな反乱 リディア・ヴェルクレアは、その日、自分が相談窓口になった覚えはなかった。 本当にない。 王国監査官として任命された。 雨音基金の初年度監査担当になった。 ギルベルト・レイヴァン王弟宰相と婚約した。 婚姻後も職務を継続することを契約書へ明記した。 そこまでは事実だ。 だが。「……なぜ、七人もいるのですか」 王宮東棟の小会議室で、リディアは尋ねた。 目の前には若い令嬢が七人座っている。 年齢は十五歳から二十歳ほど。 全員、緊張している。 そして、その先頭にいるのがエレナ・ローデンだった。 以前、慈善連絡昼餐会でリディアに声をかけた令嬢。 薬草学を学んでおり、婚約後も続けたいと話していた少女だ。「申し訳ありません」 エレナが頭を下げた。「本当は、私一人で伺うつもりだったのです」「では、なぜ七人に?」「話したら、増えました」「増えた」「はい」 リディアは七人を見る。 一人が気まずそうに目を逸らした。 一人は膝の上で拳を握っている。 一人は何か分厚い本を抱えている。 そして一番端の小柄な令嬢は、明らかに泣きそうだった。 ロザリーが淡々と資料を確認する。「相談希望内容を整理しました」「いつの間に?」「先ほど、受付で聴取しました」「早いですね」「必要ですので」 完全にギルベルト
第78話 雨音基金、最初の苦情 雨音基金に最初の苦情が届いたのは、正式始動から十二日目の朝だった。 一通ではない。 十七通だった。「……多くありませんか」 リディアは、机の上に積まれた封書を見つめた。 白。 薄青。 象牙色。 高級紙。 簡素な紙。 香水の匂いがする封筒まである。 雨音基金運営準備室の机が、朝から妙に華やかだった。 内容が苦情でなければ。「正確には、本日届いたものが十七通です」 ロザリーが淡々と答えた。「本日?」「昨日までの分を加えると二十九通」「増えましたね」「はい」 セオが隣で一通を開いている。「監査官、こちらは寄付者側ですね」「読み上げてください」「では」 セオが咳払いをした。「『長年にわたり慈善活動へ尽力してきた者として申し上げます。新しい報告書には寄付者名があまりにも小さく、支援先の要求ばかりが強調されているように感じます。善意に対する敬意が失われれば、今後、寄付を続ける者が減ることを危惧いたします』」 リディアは黙った。「次です」「まだあるのですか」「十七通あります」「そうでした」「『先日公開された支援先からの意見欄に、毛布が足りなかった、薬草茶の到着が遅かった等の記述がございます。寄付を受けた側としては、まず感謝を述べるのが礼儀ではないでしょうか』」 リディアの眉間に皺が寄る。 セオが読み上げる。
第77話 セレスティナ、祝う資格を悩む セレスティナ・ヴェルクレアは、姉の誕生日を知っていた。 冬至祭の五日前。 昔から知っていた。 だからこそ、今さら気づいてしまったことがある。「……私、お姉様の誕生日をちゃんと祝ったこと、あったかしら」 聖ルカ孤児院の台所。 焼き上がったばかりの菓子を前にして、セレスティナは呟いた。 返事はない。 菓子も答えない。 少し焦げた端の部分が、やたらと責めるようにこちらを見ている気がした。「何、その顔」 後ろからミラが言った。「どの顔?」「焼き菓子に怒られてる顔」「焼き菓子は怒らないわよ」「じゃあ、なんで謝ってるの?」 セレスティナは黙った。 確かに、さっきから心の中で何度も謝っていた。 焦がしてごめんなさい。 粉っぽくてごめんなさい。 前よりは柔らかいけど、まだお店のものみたいじゃなくてごめんなさい。 そして。 お姉様、ごめんなさい。 何もかも、最後はそこへ戻ってしまう。「お姉様の誕生日が近いの」「知ってる」「知ってるの?」「リディアが二十一になった日の次は、二十二になるんでしょ」「そうだけど」「じゃあ、おめでとうって言えばいい」 あまりに簡単だった。 セレスティナは思わずミラを見る。「そんな簡単じゃないのよ」「なんで」「なんでって……」
第76話 冬至祭五日前の招待状 レオポルド・ヴェルクレア公爵は、娘の誕生日を祝う方法が分からなかった。 正確に言えば、これまで祝ってこなかったわけではない。 花を贈った年もある。 宝石を贈った年もある。 王都で評判の菓子職人に焼かせた砂糖菓子を、箱いっぱいに用意させたこともあった。 ただし、それを娘が喜んだかどうか、レオポルドは覚えていなかった。 そこが問題だった。「……花は、何が好きだった」 公爵家の執務室で、レオポルドが呟いた。 机の向こうに立つ執事長アルマンは、すぐには答えなかった。「閣下」「何だ」「どちらのお嬢様でございますか」 レオポルドは顔を上げた。 昔なら、そんな聞き返しをされれば不快になったかもしれない。 娘といえば分かるだろう、と。 今は、その問いが正しいと分かる。「リディアだ」「リディアお嬢様のお好きな花でございますか」「ああ」 アルマンは少し考えた。「私の記憶では、特定の花を殊更お好みだったという話は存じません」「そうか」「ただ、執務机にはよく青紫の小花を飾っておられました」「好きだったのか」「分かりません」 即答だった。 レオポルドは黙った。 アルマンは続ける。「ご自身で選ばれたのではなく、庭師が机を明るくしようと置いていた可能性もございます。あるいは、他の花より香りが弱く、執務の邪魔にならなかっただけかもしれません」「……そうか」







